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レジュメのある講義が苦手な理由

2012年に大学に入学し既に3年目になるのですが、近頃、どうも自分は詳しいレジュメのある講義が苦手らしい、ということに気づきました。

嫌い、なのではありません。ただただ、苦手なのです。

 

その理由はおそらく、ノートをとらなくなることで「情報の選別と再構成」をしなくなること。

講義を聴いてノートをとるとなれば、速記術でもない限り全てを記録することは不可能なので、必然的に

・記録することとしないことの選別(「これはメモするほどでもない」)

・表現の言い換え(「つまりこういうことだよね?」)

をすることになります。こうすることで、情報が流れをもって、言い換えれば物語性をもって整理できますし、かつ自分の言葉を用いることで頭に定着する、ような気がします。

 

もちろん、講義という情報を変換するわけですから、そこで誤った変換をするリスク*1もあります。が、経験上、実際に教室で先生と対面して、リアルタイムで、それこそアウラ*2を感じながら行う取捨選択や言い換えは、かなりの確立で「当たる」ように思います。

 

ですから、レジュメがないのとは真逆に、講義内容が文字通り全て書かれているようなレジュメ(究極的には、その先生の講義録をベースにした教科書)がある場合は、この種のストレスはありません。そのレジュメなり教科書に「ここが大事」「つまりこういうこと」というメモをすればいいからです。

 

じゃあレジュメのある講義でも、レジュメはレジュメで置いといてノートをとれば良い話なのですが、すると今度は「レジュメに書いてあることをノートにとっていない」ことに不安を感じる、という事態に見舞われたりします。

兼好法師によれば、学問を分かるというのは全てを知っていることではなく、大切なこととそうでないことを区別できるようになることらしいのですが*3、どうしても「もし小事だと思っていたものが大事だったら」という不安には勝てないですし、その判断は、やはり講義のリズムや息遣いのようなものを感じていないと、できないように思います。

*1:「こうでしょ?」と思ってまとめたら、間違った情報になった or 聞き流したとこが重要だった

*2:芸術作品などの本物のみが発し、その本物にふれることによってのみ感じられる輝き(手元にある政治思想史のノートより) 井上俊編『新版 現代文化を学ぶ人のために』の一節によると「ほんものは「いま・ここに」ただ一つしかなく、「アウラ」つまり輝きと権威をともなっている」

*3:続古事談』の一節。数年前の京都の公立高校入試に出題されていた。